ホーネッカーとブレジネフ。特に意味ないんだ。

絵本「幻燈会の夜」東日本大震災と明治の三陸大津波

1611年に三陸海岸を襲った大津波を題材にした絵本「幻燈会の夜」( ISBN978-4-87720-319-1 )という本を紹介します。

先の東日本大震災でも、「幻燈会の夜」の舞台となった岩手県宮古市鍬ヶ崎は壊滅的な被害に合いました。この悲惨な現実を忘れないため、そして後世に正しく語り継ぐために「幻燈会の夜」は誕生しました。

あらすじ--
明治二十九年。岩手県宮古の鍬ヶ崎の港では年明けから不漁が続いていた。鍬ヶ崎小学校では、幻燈会が開かれることになり子供達は大喜び。五月、突如活気づく港、六月十五日、子供たちが待ちに待った幻燈会が開かれた。
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以前、吉村昭が執筆した「三陸海岸大津波 」という本を読みました。津波の前兆だった井戸の水の濁りや、地震直前の不可解な大漁状態、不気味な海からの音、この「幻燈会の夜」はこういった地震、津波の予兆を巧みに盛り込み、また、たくさんの子供達を守ることになった幻燈会のエピソードを事実を元に描いています。Amazonなどで売ってくれたらいいのになと思います。

去年の夏頃、吉村昭を特集した文芸春秋を読みました。( 文藝春秋増刊 吉村昭が伝えたかったこと 2011年 09月号 )
吉村昭は三陸にゆかりの深い人物で、文芸春秋の特集号の冒頭では平成9年の岩手県宮古市で行われた宮古海戦についての講演が公開されています。また、作家生活の始まりとも言える「星への旅 」は岩手県田野畑村が舞台となっており、1966年に太宰治賞を受賞しています。吉村昭の「関東大震災 」やこの特集号である文芸春秋には、近く必ず来るとされている首都圏直下型地震(または大地震)への根拠ある備えについて、大変勉強になる内容となっており、合わせてお薦めしたい本です。

絵本「幻燈会の夜」の著者は、花坂徹(てつ)。
これは偶然で余談で自慢ですが、吉村昭を特集した文芸春秋の中で、吉村昭が宮古の歴史を調べる際にたどり着いた、花坂蔵之助という人物の息子がこの絵本「幻燈会の夜」の著者です。そしてその著者は私の従兄であり、花坂蔵之助は私の叔父です。

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ダライ・ラマ14世 自由報道協会記者会見

ダライ・ラマ14世 自由報道協会記者会見 ダライ・ラマ14世が10月末から来日し、高野山〜東北被災地などを巡り講演を行った模様です。 ダライ・ラマ14世が来日していた事自体全く知らなかったんですが、Twitterで11/7朝に「今からダライ・ラマの会見10時からUstでやるよ」というTLがグングン流れて来たので見る事ができました。
ほへー一体誰が"腰抜け"かは別として、全然報道されないものなんですね。

Twitter -- 「今何してる?」をコンセプトに140文字で綴るミニブログとも言われる無料のWebサービス
Ust -- Ustream、誰でも簡単に無料でインターネット放送が可能なWebサービス
TL -- TwitterにおけるTime Lineのこと。色んな人のTweetが時間に任せて流れるスペース

さて、ダライ・ラマ14世について私が知っている事はあまり多くありません。ただ、私は世界/世間が受容している宗教家という人種が好きです。ポイントは言う事がわかりやすい所。圧力や政治を極力避けて、人間について慈悲深く語る所が大好きなのです。(ダライ・ラマ14世は政治家としての一面もあったが、現在は引退)誤解を恐れずに言うならばこれは、ダライ・ラマだけではなく、ローマ教皇、瀬戸内寂聴氏などについても言える事です。宗教家ではないですが、日本の天皇陛下もそれに近い仕事をなさっているような気がします。
ダライ・ラマ14世については、何と言ってもあの親しみの持てる日本人のような顔!首から上の写真などはまるっきり落語家風情ではないですか。

まあ、とにかく宗教については門外漢だからこそ、興味を持って彼らの話に耳を傾けられるのかもしれません。まあダライ・ラマ14世といえば、一介の宗教家で片付けられる人ではなく、「ガッツリ国際要人」という感じなんでアレですけどね。

下記のムービー↓は2011年11月7日に東京で行われたダライ・ラマ14世の自由報道協会記者会見の模様です。話の内容は比較的無難な所に落ち着いたものの、ダライ・ラマ14世がどのような人物であるかの一端を垣間見れるたいへん良い会見でした。
冒頭、1時間15分ほど遅れて会見場に現れたダライ・ラマは最初に「皆さんおはよう、遅れて申し訳ない・・」と言ってペコリとお辞儀をし、みんなが「ノープロブレム」と拍手で迎えると「がっっはっは」と笑い席に着きます。さあ喋り出そうという時に会場を見渡したダライ・ラマはマイクの前に立つ記者に気付いて、「あなた何か言うことがあるの?」と記者を気遣います。
英語はアジア訛で日本人には聞きやすいカタカナ英語です。言いたい事はほとんど英語で言えますがたまにお付きの人に「アレなんて言うんだっけ」と助けを求める事があります。質疑応答ではTPPについてはわからないといい、パレスチナ問題についてはその質問には答えがない、あまりにも複雑すぎるという様な事も言っていました(パレスチナ問題を質問して一蹴された記者はパレスチナ人の父を持ち、かつての赤軍リーダー重信房子の娘である重信メイさんです)。返事は軽快かつ明快でジョークを飛ばしては景気よく笑います。ダライ・ラマ14世は76歳だそうですが、たいへん快活で健康な印象を受けました。


Video streaming by Ustream

この動画以外にも今回の来日中の動画は探せば色々と出てきます。
今年は3月以降たくさんの宗教が、時には宗教の壁を越えて日本の東北のために祈りを捧げました。神や仏がいるならば何故こんなに意地悪な事をするんだろうかとまじめに思った事もありましたが、たくさんの人が(親でも子でも女としてや男としてでもなく)人として心のよりどころを求めてるこの時期、ダライ・ラマ14世の来日は多くの人の心の支えになったんじゃないだろうかと思いました。

お別れ

14日朝パチっと目が覚めて時計を見ると5:10で外はまだ暗かったので、水を飲んで再びベッドに入りました。 
9:30頃仕事の支度をして、さて家を出ようかと言うところで母から電話があり、祖母が朝4:50に亡くなって、すでに祖母は岩見沢の家に帰って来ていると電話がありました。

亡くなったあとあちこちに挨拶をして東京にも立ち寄ってくれたのかもしれないなと思いました。

会社に電話を入れて、飛行機を手配し、ネイルサロンで爪を落として喪服を用意してとりあえず実家に帰宅。

仮通夜10/15(土)、通夜10/16(日)、葬儀/四十九日繰り上げ法要10/17(月)の全てに出席。家族葬という形を取ったため、子(と配偶者)、孫(と配偶者)、ひ孫のみのこじんまりとした素晴らしい通夜、葬儀でした。

私の親戚にはカメラ好きが多くて、祖母は元気だった時、親戚達と北海道中を旅しては写真を撮ってアルバムにしていたので、祖母の写真はそれこそ無数にあるのですが、喪主である叔父が遺影に選んだのは12年前に私が贈った祖母の肖像画と4年前に兄が書いた祖母のデッサンでした。「遺影はこれにしようと決めていた。」と叔父が言ったとき、親戚みんながそれに気持ちよく賛成してくれたということで、それはそれでとても光栄な事なのですが、こんな事ならもう少しちゃんと・・・みたいなことで恐縮でした。畑仕事が大好きで花が大好きだった祖母のために、祖母の庭で取った秋の花を母が豪勢に飾りました。

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孫が描いた遺影に、娘が生けた庭の花・・・。極め付けは葬儀後の晴れやかな空に虹・・・。

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優しくて温かい祖母に相応しい印象的なお別れ会でした。
葬儀の後は親戚みんなでレストランに繰り出して、美味しいフランス料理を食べました。

INDY JAPAN 2011 the Final in Twin Ring MOTEGI

Inter FMの抽選で当たったIndy Japan 2011 the Finalに行って来たよ。

小山駅から真岡線、一本前が1日1本走ってるSLだった。これも寝坊しなければ乗れてたかも。。でも茂木駅でSL見れた。

茂木駅

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やっぱりライブで何かを見るのはいいなー。遠かったけどすっげー楽しかったよ。 帰りは16:00にツインリンクもてぎを出て、宇都宮で食事など2時間程費やして、家についたのが23時頃でした。疲れた。。

仙台最終日(8/20)

仙台最終日。予定はないので朝食終わるギリギリまで寝てて、午前中はうだうだと過ごす。

帰る時間も決めていなかったため、今まで乗った事のない「るーぷる仙台」という仙台市内をまわるツアーバスに乗る事にしました。「るーぷる仙台」はコンパクトなツアーバスで、一日乗車券600円を払えば、いったん降りても20分おきに出る別の「るーぷる仙台」に乗り降りできる便利なバスです。停留所は15箇所。仙台に来ると本当に良く見かけるんだけど、一度も乗った事は無かったので良い機会。

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▼ バス停6 - 仙台城跡 初代仙台藩主、伊達政宗の城。有名な伊達政宗像。

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小一時間程場内を散策。城はもうありませんが城下町を見おろす眺めは良いものでした。

バス停8 - 理学部自然史標本館前 仙台の中心地に近い市街地はほとんど東北大学のキャンパス。キャンパス周りを次のるーぷるがくるまで散歩。

バス停9 - 二高・宮城県美術館前 懐かしの"貧食跡"を散策。

その後タクシーをつかまえて仙台駅前で来た時と同じく中央駅前店の喜助にて牛タンを食べる。その後ゆっくりと仙台駅でお土産を見て回って夜ご飯用の駅弁(ハラコ飯)を買って新幹線にて帰京。

結局ずっと天気は悪かったけど、雨に振られる事もなく暑すぎず比較的快適な仙台旅行でした。

 

仙台二日目(8/19)

今回宿泊したホテルは三井ガーデンホテルという、清潔感あふれる都会のシャレオツなホテルでした。
朝食がおいしくてついつい食べ過ぎる。

遅い午前にホテルを出て、仙石線(せんせき)で松島に向う。そう言えば東北には「陸前」とつく地名が多い。仙石線にも「陸前原ノ町」「陸前高砂」「陸前浜田」松島海岸駅を過ぎてからも「陸前富山」「陸前大塚」「陸前小野」「陸前赤井」「陸前山下」と「陸前」駅が続く。ちなみに今回大変な被害をうけた「陸前高田」は 岩手県の地名です。東京の「武蔵なんとか」や「千歳ナントカ」よりも多い様に感じる。「陸前」は昔の国名です。

さて、松島駅には遊覧船を楽しみに来ました。宮古で遊覧船に乗って以来、ちょっとハマる。この数日、仙台は天気が不安定で、雨が降ったり、少し晴れ間が出たりと、遊覧船に乗るタイミングも難しかった。着いた時に運良く晴れ間が出たので、着いてすぐに遊覧船に乗る事にしました。遊覧時間は50分。結論から言うと、ちょっと遊覧範囲が広くて見るべきものが多くてすこし散漫になってしまいました。でも風をうけてカモメと走る遊覧船はやっぱり爽快だなー。

▼天気悪い。

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遊覧船をおりて、目の前の瑞厳寺(ずいげんじ)の参道を歩いていたとき、遠くからドーンという音が聞こえ耳がキーン、参道の杉林が揺れ、周りの人が騒然としました。数分後、津波警報が発令された旨、災害放送が流れ、自衛隊機と思われるヘリコプターが頭上を飛び交い、消防車が海に近づかないよう注意喚起しながら走り回っていました。

▼瑞厳寺

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残念ながら、松島観光はここまで。お土産も買えず、食事もできないまま、仕方なく動き出した電車で仙台に戻りました。残念。でももう少し遅かったら遊覧船にも乗れなかっただろうから良しとしよう。

仙台に戻って、少し休んで、地下鉄で長町にむかう。父のイトコ夫婦が営む割烹へ。父のイトコともその息子(親同士がイトコなので私のハトコ)とも初対面で、存在すら知りませんでしたが、出会ってすぐに馴染めたのはやはりお互いに「親戚」という気持ちを持っていたからだろうと思う。しかし、私の知らない間にも、遠い親戚が色んな人生を歩んでるんだなーと思いました。ハトコは少し年代が下だったけど、お互い喜び合って楽しく過ごしました。美味しいものもたくさん出してもらったし、凄く楽しかった。

仙台初日(8/18)

今月も行ってきました東北(遊びに)。朝8:56の東北新幹線やまびこ。
平日とあって東京駅までが大変だった・・・。汗だくで満員電車に大荷物。東京駅にたどり着いた時にはぐったり・・・。 

新幹線は快適。あっという間に仙台着。いつも味の牛タン喜助駅前店で牛タンを食べるのですが、駅前店は今回の地震でビルにかなりのダメージがあったらしく、ビルが封鎖、斜め向いの泉中央駅前店の喜助で牛タン食べました。心なしかいつもより美味しかったです。

 その後ローカル線の仙山線で作並へ。お目当てはニッカウヰスキー宮城峡蒸留所。JR作並駅に着くと平日なので蒸留所行きのシャトルバスは無し・・・。JRの駅員さんに行き方を訪ねると、タクシーを呼んでくれました。(普通JRの駅員さんはタクシーを呼んでくれない。)

無料見学の行程はシンプル。1.現在は利用されていない、乾燥棟(キルン塔)でピートを触ったり臭ったり。2.仕込棟にて、最新のコンピューター制御室を横目に通りすがる。3.蒸留棟でポットスチルの大きさに唖然とする。4.貯蔵庫で樽見学。5.ゲストホールで試飲(待ってました!)

▼1.蒸留所のシンボルパゴタ屋根のキルン塔

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▼2.コンピューター制御室 

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▼3.蒸留棟のポットスチル

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▼4.樽貯蔵庫は木とウィスキーの香りが漂う

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▼5.試飲は宮城峡、竹鶴、アップルワインの3種類

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写真を撮る時のかけ声は「にっこりニカニカ、ハイニッカ!」でした。

 

岩手で出会った3つのうた。

まずはじめの詩は「雨ニモマケズ」

岩手県を代表する2大巨頭といえば、石川啄木と宮沢賢治。今回お土産屋などで見かけた宮沢賢治の詩、あまりにも有名であまりにひねりがないものの、今の東北には、いや今の日本にぴったりだろうと、"そういえば"思いました。

ちなみにこの詩は4月11日ワシントン大聖堂で行われた A Prayer for Japan という東日本大震災の犠牲者への追悼と、復興を祈る礼拝でもほぼ全文が読み上げられたそうです。

そして、盛岡の伯父が詠んだ俳句。

伯父は定年後、有馬朗人を師とし、長年俳句を詠んでいる。今回「天為集」という作品集の中で「東日本大震災を詠む」巻頭第一席(つまり最優秀)に選ばれた俳句。

天為 平成二十三年六月号 巻頭第一席

海裂けてふるさと消ゆる春の修羅

ここにも宮沢賢治のエッセンスが。伯父の師である俳人有馬朗人は、原子核物理の偉い物理学者でもあり、今回の原発事故を受けた有識者会議でも名前が上がるような偉い人なのだ。

最後の歌は「喜びも悲しみも幾歳月」。

この歌は浄土ヶ浜の遊覧船のガイドさんが最後に歌ってくれた歌です。バスガイドさんが歌うように宮古の遊覧船もガイドさんが歌ってくれます。この歌は1957年に松竹が作った映画、「喜びも悲しみも幾歳月」という大ヒット映画の主題歌だそうです。海の安全を守るため、全国の灯台を転々としながら暮らす夫婦の物語。ガイドさんの歌声に思わず目頭が熱くなりました。映画も見るつもり。

「喜びも悲しみも幾歳月」

1 俺(おい)ら岬の 灯台守は
妻と二人で 沖行く船の
無事を祈って 灯(ひ)をかざす
灯をかざす

2 冬が来たぞと 海鳥なけば
北は雪国 吹雪の夜の
沖に霧笛が 呼びかける
呼びかける

3 離れ小島に 南の風が
吹けば春来る 花の香(か)便り
遠い故里 思い出す
思い出す

4 朝に夕(ゆうべ)に 入船出船
妻よがんばれ 涙をぬぐえ
もえてきらめく 夏の海
夏の海

5 星を数えて 波の音(ね)きいて
共に過ごした 幾歳月(いくとしつき)
よろこび悲しみ 目に浮かぶ
目に浮かぶ

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

not losing to the rain
not losing to the wind
not losing to the snow nor to summer's heat
with a strong body
unfettered by desire
never losing temper
cultivating a quiet joy
every day four bowls of brown rice
miso and some vegetables to eat
in everything
count yourself last and put others before you
watching and listening, and understanding
and never forgetting
in the shade of the woods of the pines of the fields
being in a little thatched hut
if there is a sick child to the east
going and nursing over them
if there is a tired mother to the west
going and shouldering her sheaf of rice
if there is someone near death to the south
going and saying there's no need to be afraid
if there is a quarrel or a lawsuit to the north
telling them to leave off with such waste
when there's drought, shedding tears of sympathy
when the summer's cold, wandering upset
called a nobody by everyone
without being praised
without being blamed
such a person
I want to become

岩手 宮古最終日

例によって若干二日酔い。初日、親戚へのあいさつ回り、二日目、先祖の墓参り、最終日は観光。
先の2日間とも、山背の影響で雨模様だったものの気温は25度前後と過ごしやすかった。観光日に当てた本日は快晴。気温も高め。朝食後、日の出町に父を迎えに行く。

午前9時40分の遊覧船に乗るために少し早めに、冗談みたいに遅い観光バス浄土ヶ浜ボンネットバスに乗り込み、中の浜で時間をつぶす。美しい景色とレトロなボンネットバス、まるで全部が宮崎アニメ。

燦燦と太陽の光とマイナスイオンが降り注ぎ、鳥が鳴き、まるで小川のせせらぎのような波の音。普段はこの世の天国のようなこの場所も、震災時にはその雄大な自然が牙をむき、人が作った堤防や建物はすべて飲み込み海の中に消えていった。。。かくしてそこに残ったもの。以前と変わらない美しい自然の海。海は透明で冷たく、浄土ヶ浜特有の白い石の浜(砂浜ではなく白い石浜)。浜から見る海側の風景は30年前と何一つ変わっていないのであった。

徒歩で遊覧船乗り場へ。遊覧船は3隻あった遊覧船のうち2隻はだめになってしまったが、無傷だった1隻で営業を再開した。(岩手日報

小さい頃遊覧船にはよく乗った記憶がある。父は初めて乗ると言っていたので、母と、従兄妹達と乗ったのだろうが、ウミネコの記憶と、いつも海水浴をする奥浄土ヶ浜と沖との位置関係がよくわからず、自分がどこにいるのかあまり理解できてなかった気がする。ポイントとしては「浄土ヶ浜に行くのに服着てる」「船に乗るのに北海道へは着かない」みたいなことで、「自分が何しているかよーわからん」みたいに考えていたんじゃないかと思う。

大人になって初めて乗る遊覧船は、懐かしさと期待が入り混じったとてもエキサイティングな経験だった。ウミネコへの餌やりは最初怖いけどコツを知るとハマるわ。あとウミネコは無表情で怖い顔してる。すごい近い距離で(顔に翼が当たるくらい!)こっちをチラチラ見てくるのでなおさら怖い。

40分の遊覧でウミネコへ餌やり、天然記念物のローソク岩、夫婦岩、毛蟹岩、潮吹穴等の海からの名所めぐり、あとは津波が壊した堤防などの痛々しく生々しい爪痕、真っ青な空に透明な海、冷たい風、最高でしたわ。

遊覧船を降りて、一度中里団地の仮設住宅へ住む伯母の元に挨拶に伺う。父子で忘れ物をしていた模様。挨拶をして昼食へ向かう。昼食をとったお店はまたもや父の従妹の店だった。

食事後に宮古の魚菜市場に立ち寄る。果物と大好きな雲丹の塩漬け、ふのり(安っ)等を購入して、私は荷物をリュックごと宅配便へ。レンタカーを返して父と別れ、従姉夫婦と家路に着く。
宮古14:00発 - 岩手県北バス - 16:10盛岡着
盛岡18:28発 - はやぶさ406号 - 20:43大宮着 従姉夫婦下車 21:08東京駅着

これにて私たちの旅は終了。しかし復興の旅はこれから、被災地に家族を持つ人間として、何か考えなければいけない。

Haya
帰りははやぶさに乗ったよ。

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